県師会
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当会の歴史

  • はじめに
  • 今冨翁

     山口県鍼灸マッサージ師会(県師会)の歴史は古く、さかのぼること127年になります。明治23年赤間関(あかまがせき、現在の下関市) で今冨翁が心血をそそがれて創設され、それが源流となり、大正時代に引き継がれ、昭和28年山口県鍼灸マッサージ師会が誕生し、初代の 会長に木部正一氏がなられました。昭和41年11月25日に社団法人となり、初代会長に村雲留一氏が就任、そして、平成25年4月1日に公益性 重視の公益社団法人になり、初代会長が就任し、現在に至っています。昨年(平成28年11月27日)に法人化50周年記念式典を開催いたしました。 歴史をわかりやすくするために、ターニングポイントの「黎明期」、「成長期」、「発展期」、そして、「将来に向けて」に分けて報告します。 [写真は今冨翁]

    黎明期(明治23年から昭和27年まで)

     県師会の源流は江戸時代慶應3年生まれの今冨八郎翁で、若くして村長などを経験していましたが、32歳で視力障害になられ、そこから奮発し、 鍼灸・あんまの技術を磨かれ、自らにも試され、その良さを実感されたので普及に努められました。県師会の前進である赤間関鍼灸組合を 明治23年(1890年)に会員数約50名で設立されました。続いて明治27年に山口県鍼灸按摩師聯(連)合会が会員約120名で結成されました。 一方、1905年(明治38年)10月に今冨盲学館を設立され、山口県立盲学校を経て、現在の山口県立下関南総合支援学校と大きく発展しています。 今でも、本学校の卒業生が「今冨会」と銘打って、毎年同窓会を開き今冨翁の遺志を継いでいます。時代は流れて昭和25年に上部団体 (全日本鍼按マッサージ師会連盟、日本鍼灸師会)が並立したため、山口県鍼灸師会(120名)と山口県按摩マッサージ師会(90人)を結成していました。 別々に歩んでいたのを組織の弱体化と衰退を防ぐため統括し,山口県鍼灸按摩マッサージ連合会となりました。

    成長期(昭和28年から昭和40年まで)

      昭和28年に木部正一氏をはじめ、先覚者と本会の名誉会長田中龍夫代議士のお骨折りで関係者の団結と鍼灸マッサージの進歩・発展を図り、 県民の健康福祉に寄与する目的で山口県鍼灸按マッサージ師会を設立しました。初代の会長に木部正一氏が就任されました。その後、昭和34年、会長は山辺薫氏に引き継がれ, 「中央師会の一本化」、「社会保険・各種保険の取り扱いの実現」、「県師会の鍼灸会館の設立」をコンセプトに指導力を発揮し活動されました。 残念ながら在職中に鍼灸会館の設立は夢として消えましたが残りの2項目は昭和37年に会長中村徳太郎氏、昭和39年に会長中村静光氏と引き継がれました。

    発展期(昭和41年11月年社団法人認可から平成25年3月公益社団法人の認可前まで)

    1)会長村雲留一氏(以下村雲氏)(昭和41年4月1日から昭和45年3月31日)
     村雲氏は会長になるとすぐに法人化について挑戦され、全国的に見ても早めに取り組まれました。そして、昭和41年4月25日に県師会を社団法人にして、社団法人山口県鍼灸マッサージ師会は宇部市南小羽山に事務所を置き、活動拠点としました。村雲氏の運営はトロイカ方式(3頭馬車)で、県師会の会員は中央3団体の全日本鍼灸マッサージ師会(全鍼師会)、日本鍼灸師会(日鍼会)、日本あんまマッサージ師会(日マ会)に属し、社団法人格を持つ県師会が中心となり、日鍼会、日マ会に属していた会員は各々の会に属しながら県師会会員にもなっていました。県師会の役員は中央3団体のそれぞれの会員になり、いわゆる後に堀元会長が唱える一団体3法人の形で運営を行っていました。  県師会の大きな傘のなかで、2団体が村雲氏のもとで、学術の研鑽、会の運営をしていました。昭和57年5月4日にそれぞれ、2法人の登記がされ、社団法人山口県鍼灸師会(県鍼会)、社団法人山口県あん摩マッサージ師指圧師会(県マ会)と称し、下関市後田に事務所を置き活動拠点としました。
    2)会長廣石留雄氏(以下廣石氏)(昭和45年4月1日から昭和55年3月31日)
     廣石氏は中央3団体の紛争が山口県にも影響が出始め、県師会の3団体分離を防ぎ、トロイカ方式を必死に維持されました。廣石氏は顧問に山辺氏、相談役に村雲氏を置き、全力で分裂を防ぎました。そして、堀元氏に会長を託されました。
    3)会長堀元重司氏(以下堀元氏)(昭和55年4月1日から平成4年3月31日)
     昭和57年に県鍼会、県マ会が法人され、昭和57年4月の総会で一団体3法人の初代会長となり運営を始めました。全体と県鍼会は堀元氏、県師会は三浦省三副会長、県マ会は安田和正氏に分けてそれぞれを長にして、各部会に出席し、その内容を全員に知らせる方式をとり運営されました。しかし、中央3団体の保険問題についての見解の相違は厚生省からの指導にもかかわらずまとまらず、これが地方にもおよび、一団体3法人で運営していた県師会にも影響を与えだしました。 堀元氏はこれをまとめることに全精力を使い、外部との交渉はすべて堀元氏が行い、昭和53年からの保険問題をからめ業界再編成の中、県師会は分裂することなく堀元氏の努力で社団法人山口県鍼灸マッサージ師会のなかで、県鍼会、県マ会の会員も一緒に行動し、行政、県医師会等の信頼を杵築きました。そして、6期12年を務めあげられ、高石寶円氏に会長を託されました。
    4)会長高石寶円氏(平成4年4月1日から平成8年3月31日)
     堀元氏に引き続き継いだ直後の総会で一団体3法人の運営を進める方針が可決されました。そして、切り詰められるものは切り詰め、必要なものに回す運営をしました。特に学術研修と会計の透明化に力をいれられました。 このころから、保険問題に対する執行部のやり方についての会員との意見の違いがおこり、まとめることに尽力されました。一団体3法人の定款、運営についても検討を行いながら、何とか一団体3法人を守り通し、重村周正氏に引き継がれました。
      5)会長重村周正氏(平成8年4月1日から平成12年3月31日)
     保険の推進(療養費の委任払いの獲得)と学術向上を大きな柱にあげ、県師会をまとめることに注力されました。
    しかし、県師会では表向きは一団体3法人で運営していましたが実際は山口県鍼灸マッサージ師会の社団法人の傘のなかで2法人(県鍼会、県マ会)が活動しており、県師会は1法人か2法人としてまとまるか、3法人として独立して生き抜くか、また、3法人として別々になった時に単独で保険請求の運営ができるかの大きな問題が重村氏の在職中にありました。理事会、評議員会が何回も行われ、平成12年3月の理事会で3法人にわかれることを決断し、同年4月の総会で可決されました。 重村氏のご努力で、平成10年に県と「療養費の委任払い」の協定を締結され、保険の取扱いができるようになりました。そして、この大役を果たされた後、舛尾政美氏に次の会長をゆだねられました。
    6)会長舛尾政美氏(平成12年4月1日~平成18年10月)
      舛尾氏は県との3か月にわたる交渉で、山口県では県師会、県鍼会・県マ会の2方式請求ができるようにしました。会計処理については会計担当事務員を採用し、会計を会長の管轄から分離、コンピューターを使用し、事務の効率化を図りました。平成18年全鍼師会in山口の開催にあたり、県に働きかけ、補助金の 拠出に尽力されました。県鍼会は会長河野紘氏、県マ会は会長安田和正氏を擁立し、3法人を分離、独立させました。現在、県鍼会は公益社団法人、県マ会は任意団体として、独立して活動しています。 舛尾氏は社団法人設立からトロイカ方式、一団体3法人方式での流れに沿った運営を率先して行い、最後は自らが3法人に分離、独立させました。当時監事の長松敏幸氏に引き継がれました。
    7)会長長松敏幸氏(平成18年10月から平成23年3月31日)
     公益社団法人に移行の要請が中央団体からあり、公益社団法人になる準備を始めました。まず、県師会の住所が社団法人設立時の宇部市になっており、これをまず、平成21年9月に下関市に変更しました。このとき、県から数々の書類の不手際を指摘され、公益社団法人になるまでの道のりの大変さを実感しました。 平成22年7月には第11回全国障害者スポーツ大会(平成23年10月21~24日開催)のコンディションニングルームに有資格者を県師会から派遣することが決まり準備を始めました。一方、中央の全鍼師会と地方をコンピューターで結び会員数などを掌握するソフト「桐」の立ち上げのための勉強会などを開催しました。 平成23年3月31日をもって林 和俊氏に引き継ぎました。

    将来に向けて (平成23年4月社団法人認可から現在に至る)

     会長林 和俊氏は公益社団法人にすると公益性重視の運営ができ、社会的にも認められる団体になり、税金の免除など社団法人より優位になるために進めました。しかし、従来と違った会計処理、新しい定款の作成など、莫大な資料作成が必要でした。理事会での説明と何回も県庁に出向き、資料提出、訂正を繰りかえし、ようやく平成25年4月1日に公益社団法人に登記され、公益社団法人山口県鍼灸マッサージ師会(県師会)に改称しました。平成23年10月21~24日に開催された全国障害者スポーツ大会(下関会場:ボーリング、ソフトボール)のコンディションニングボランティアに参加し、公益社団法人として初の活動をしました。平成26年には初回から下関市鍼灸マッサージ師会が参加していた「下関海響マラソンクールダウン」に県師会が全面的に参加し、下関市鍼灸マッサージ師会から引き継ぎました。また、平成27年10月18,19日の「ねんりんピック」の下関4会場に「ケアボランティア」として参加し、その実施内容を東洋療法推進大会in愛知でパネラーとして報告しました。現在、精力的に公益性重視の活動を継続中です。